Jane EyreはなぜRochesterのもとに戻ったか

 闇の深い幼少期だった。Jane Eyreに比べればはるかに恵まれていたが、歪んだ価値観を持つには十分だった。

 両親ともに職を転々としており、不安定な生活だった。あまりの耐えがたさに、9歳の夏休みは、国外の親戚の家へと避難した。後には自傷も繰り返した。

 そんなのからは想像もできないほど教育には恵まれ、名門と言われる高校を卒業し、名門と言われる大学に入学した。私の知らない世界が広がっていた。中学受験、進学塾。私の知らない価値観が広がっていた。

 

 昔から、心を閉ざしがちだった。人と通常に会話をすることを苦とはしなかったが、立ち入った話をするのが怖くて、誰かと「とっても」仲良くなることが苦手だった。

 大学で知り合った子たちは、「良い人」のように思われた。単位の話などをするには楽しかった。でも不思議と、普段の生活のどうでもいい話をすることがほとんどなかった。

 

 何人か、本当に仲良くなりたいと思える人がいた。そして、その人たちもまた、私に好意的であった。何日か、何週間か、お話をした。そして、怖くなった。

 彼らはきっと、私のことを理解できない。そして私のもとを立ち去っていく。もしくは、何かの間違えで理解してしまったら、依存してしまう。向かう先は破滅だ。

 

 そんなんだから、私は孤独感といつも一緒だ。

 私はJane Eyreのようにはなりたくない。だれかに依存せずに強く生きたい。あと、もう少しだけ、心を開けたい。

 

田舎という絶望

 長期休暇になると、帰省することを期待される。それは地方の学生にとって当たり前かもしれないが、私の家では長期休暇まるまる帰省するのを当然のように要求されるので、とても困ってしまう。

 なぜ困るのか。もちろん、誰かと遊びに行ったり、ゼミに参加したり、そんな夏休みの特権が実家では使えなくなる、それは重大な機会の損失である。しかし、それ以上の困難もある。ド田舎に暮らす者にしか分からない、さらに深刻な問題を紹介しよう。

 

 通常、実家では家事も全てやってもらい、自由な時間も多くなるため、精神的な余裕が生じることが期待される。私も、帰省して5日ほどはその通りに、都会の喧騒を離れて別荘でゆっくり過ごしているかのように、何もしないことの幸せをかみしめる。1週間が過ぎ、2週間が過ぎると、だんだん、「何か」をしようとする。それは何でも構わない。どこかに遊びに行ったり、誰かお友達に会ったり。そこで田舎の問題が姿を現す。

 実家というのは、小中学校や高校の同級生の実家でもあるから、みんなが帰省する休暇はちょっとした同窓会を開いたりするのにぴったりである。いついつにどこどこで集まろうと思うんだけど、そんなお誘いをもらうこともある。実家に籠っていてもおもしろくないから、もちろん参加したいのだ。

 東京にいれば、何かを「したい」というのと、何かを「する」というのは、だいたい同じ意味である。誰も妨げる人はいないし、せいぜい時間やら予算やらの束縛条件を受ける程度で、その条件のランクは望む行動の自由度に対して小さいことが多く、うまく調節すればなんでも実現できると思って良い。

 実家では束縛条件が変わってくる。「親」の存在だ。休暇とはいえ遊びに行ってばかりではいけない、という条件もある。ただ、最もやっかいなのは、独力で街に出ることができないことである。街に出るためには車で駅まで送迎してもらわなくてはいけない。駅まで歩いては、大きな街に出るまで片道2時間かかってしまう。それは、大したことのないように見えて、大きな問題である。

 どこかに思いつきで出かけることは当然できない。誰かと遊ぶ約束をするにも、親の都合が関わってくる。親に仕事が入ったり、他の用事で車を使うと主張されれば、即アウトだ。その結果、実家ではひたすらに家に引きこもることになる。東京にさえいればどこにでも出かけられ、何でも好きなことができると分かっていて、実家では何もすることなく引きこもるのだ。それは絶望である。

 

 「格差」はなぜ問題なのか。それは絶望を引き起こすからである。格差というのは束縛条件の多さであり、何かするときの足かせである。ド田舎に住むこと、貧困、教育、現代にはたくさんの格差があるが、本質は同じだろう。その問題は、自身の不自由な境遇に慣れてしまい、実際に束縛条件が少なくなったとしても希望を持つことができなくなってしまうことである。

 大学無償化が大きな論争となっている。修学の環境を整えることは大事であろう。ただ、本当の貧困に陥っている子どもに対して、絶望した子どもに対して、それは本当に有効なのだろうか。幼少期から寄り添い、心のケアをしてあげることで、絶望から救い出す、そんな支援こそ、本気で格差を縮めたいのならば、必要なのではないだろうか。

新緑の季節

 4月下旬から5月上旬にかけての連休を、世間ではゴールデンウィークらしい。今日は、実家ではお茶刈りをしているらしい。夏も近づく八十八夜である。

 思えば、GWにどこかに遊びに行ったという記憶はない。記憶はいつもお茶畑である。けたたましい音をたてて動くお茶刈り機、お茶の葉を取り込んでふくらむ大きな袋、ふわふわしていていいにおいのその袋は、1年で1回だけの、世界一贅沢なおふとんだ!

 

 そうやって、小さい頃から、農業というものが身近にあった。果樹園、田んぼ、お茶畑、普通の畑、そういったものを所有しているのは、普通のことだと思っていたけれど、どうやら珍しくて、すごいことらしい。

 でも、その土地に戻ってくることはないだろう。もうちょっと都会で就職するだろうし、故郷は人が減り続けるばかりだ。あと何十年かしたら、もう人がいなくなるかもしれない。

 

 農業、それは、本当に豊かな営みだ。個人で所有するようなちょっとした畑、そのちょっとした一画に植えられた苗から、数十 kg もの野菜が収穫できたり。一区画のちょっとした田んぼから、14人が1年間食べてやっと消費できるくらいのお米がとれたり。スーパーで売られている野菜などに慣れると、農業というものの規模の大きさに仰天するだろう。

 毎年、5月にお茶を刈ると、お茶を加工する組合に持って行って、加工してもらう。そのときに、手数料的な感じでかなりたくさんのお茶を組合に譲ることになる。なんだか、年貢みたいだ。そうして、譲ったお茶は、商品化されてどこかで売られて、誰か知らない人が飲むことになる。それで、余ったお茶は家族で飲むことになるのだが、毎日たくさんのお茶っ葉を使ってお茶を沸かしても、使い切れないくらい、ほんとに、ほんとにたくさんあるのだ。

 

 もし、田舎でも暮らせるほど体力があって、車の運転をするだけの勇気があって、虫が嫌いではなくて、すぐに手荒れを起こしたりしなかったら、私は農家になりたかった。農業も最近はだいぶ変わってきてるみたいだから、今の私にももしかしたらなれるかもしれないけれど、それでも、もっと私に合った職業があるんだろうな。

 それでも、私は、農業というものを本気で応援したい。良い農作物を買うこと。たくさんの野菜を食べること。農業の良さを語ること。直接的に農業を推進することはできなくても、私にできることはたくさんある。

 

 最後に、もし、みんなが何十年か後に、仕事がなくなったり、どうしても仕事がつらくなったり、絶望して、どうしようもなくなったとき、農業という選択肢があることを忘れないでほしい。それは、世間からのイメージはともかく、生きる道として、そんなに悪い選択肢だとは私は思わない。

疑問

 人々は、どうやって日々を過ごしているのだろうか。

 大学に通い、サークルに所属し、バイトにも励み、インターンに参加する、そんなバケモノのような人が割と周りにいたりする。そういう人々は、どんな生活をしているのだ。果たしてそれは人間業なのか。大学に入ってから、そういう疑問を抱くことが多くなった。

 私は勉強はそれなりにはしているつもりだが、サークルもやめ、バイトもあまりしていない。学問をしに大学に来てるのだから、勉強を優先したっていいだろう。

 それなのに、いろんなことに手を出している人々に、成績で負けたりする。どうして、そんなに器用に生きられるのだろうか。

 

 最近になって、自分なりの答えが出たので、書き留めておく。

 そういう人々は、別にたくさんのことをこなすのが上手な、能力の優れた人だというわけでもない。他のいろんなことを犠牲にして、それでもあるいくつかの物を大事にしたいと思っているのだ。睡眠とか、食事とか、まあ簡単に表現するとQOLを犠牲にしていることが多いように思われる。

 私はQOLをめちゃくちゃ大事にしている。何なら勉強よりも優先している。テスト前でも必ず22時くらいには寝るし、降年や留年がかかってでもいない限り、つらい生活を送るくらいなら単位を落とした方がましだと思う。それだから単位をあれだけ落とすのだろうけれども。

 思えば、サークルをやめた一番の理由は、練習が長引いて睡眠時間が削られることが何度かあったということだ。単位を落としすぎていることへの危機感もあったが、それよりも、生活の質を落としてまで続ける意義が見いだせなかったのだ。

 

 人生の意味、というか、生きているのは、幸せな思いをするためだと思っているので、つらいことはできるだけ排除したいし、暮らしの質を上げるためならそれなりの努力はしたいと思っている。

 でもそれって、ある意味、危険な思想なのかもしれない。というのも、仕事を始めたら、当然しんどいことも多くなってくるだろう。これからさらに進学して研究をしていても、ある程度は長い時間の研究が必要になってくるだろうし、たいていはうまくいかないだろうから、つらくもあるだろう。それに見合うだけの楽しみが見いだせるのならばよいが、物事を楽しくする能力がなくなったとき、残るのは、無である。何もしなければ、楽しくはないが、つらいことは少なくとも排除できる。その効用は長くは続かなくて、無は苦痛に変わるだろう。絶望である。

 今のところは毎日が楽しいので、思想を変える必要もなかろう。

井のカワズ線に乗って

 外が何やら賑わしい。ボロアパートの2階から外を眺めると、大きな車が止まっていた。大学生とその両親がたくさんの荷物を運んでいる。春だ。引っ越しの季節だ。

 この落ち着かなさ、この浮ついた感じ、大学生活が始まったばかりのあの頃を思い出さざるをえなかった。

 

 2年前の3月29日、8時29分発こだま東京行に乗って、私は駒場へと向かった。駒場というところに行くのは初めてで、わくわくしていた。

 渋谷というところにたどり着き、「井の頭線 渋谷→駒場東大前」というメモとにらめっこする。そのような線は見つからない。しばらくぐるぐる歩いたのち、そんなに急いでなさそうな通行人のサラリーマンに声をかける。

「井のカワズ線って、どこから乗れますか?」

井の蛙は私である。親切なことに、苦笑いしながら、井の「かしら」線であると訂正してくれ、乗り場を教えてくれた。

 こうして駒場にたどり着き、入学手続きを済ませ、アパートで荷物の入った段ボールを開け、開け、開け、そして収納した。

 引っ越しから入学手続き、入学式に至るまで、親は東京に来てくれなかった。私の通っていた駒場や住んでいたアパートを親が初めて見たのが1年生の11月である。信じられない。実家のほうでも引っ越しをしたばかりだったので、まあやむを得ないが、実家から出る最後のときくらいは甘えたかった気もする。

 そして4月から大学1年生となった。全くの新しい環境、今までと幾分性質の違う人々。帰り道で泣き、帰ってからも泣き、それでも必死に生きていた。随分ときつかったが、それを乗り越えたので、これから先どんな環境でも生きていける気がする。

 

 そうだ、そろそろ図書館に行こう!

 回想から戻ってきた私は外に出た。そして先ほど見かけた車を通りすぎた。通りすぎて、しかし何かに引かれて振り返ると、ナンバープレートは私の出身県のものであった! 思わずその一家に声をかけると、なんと私の高校の後輩であった! なんという偶然であろう。

 しばらく一家と話をしていると、私は実家を出たあの頃に戻っていた。私の地元からはるばるとやってきたあの車には、私の両親からの私への応援も乗って来たに違いない。

九州旅行記 後編

 自動車は嫌いな私だが、旅行そのものは好きである。見知らぬ土地にいる、それだけで気分は高揚する。そもそも高校時代は、日本や海外のいろんなところに留学したり出張したいという動機だけで勉強していたものだ。

 

 しかし「旅」の意味が半年前から、幾分か変わって来たように思われる。きっかけはゼミ旅行である。東京の出身であるゼミ生2人の案内で東京23区の主に東部を観光したのだが、それらは彼らの故郷であり、生活の場であり、学習の場であった。彼らは町の細やかな路地も知っており、「普通」の観光客ならば選ばないような道を選び、ガイドブックには載っていないがそれ故により「東京らしい」東京を見せてくれた。

 それまでの旅とは、知らない土地に行き、観光案内所に紹介された場所を巡り、目新しさを楽しむものであった。ゼミ旅行を通じて、旅とは「故郷」に帰るという側面もあることを知らされた。ゼミ旅行に行く前から東京について何度か聞く機会があり、東京というものに精神的に慣れ親しんだ後に旅行に行ったことで、「知った」土地への回帰となったのである。細かな路地を私たちが歩いていたとき、私たちはその土地に属した、「地元」の民に見えたであろう!

 

 九州旅行でもまた、「故郷への回帰」を果たしたのだ。福岡県久留米市には有名な中高一貫校があり、そこを卒業した知り合いが何人かいて、前から久留米市についていろんな話を聞いていた。くるっぱというゆるキャラがいて、久留米市で愛されているがあまりかわいくはないこと。久留米駅には西鉄という鉄道が通っていること。鳥栖はほぼ福岡だということ。どれもどうでもいい話である。しかし、どうでもいい話を知っているということで、私は久留米市を「故郷」と成しえたのである。

 果たして久留米市はくるっぱに溢れていた。道の駅で売っている野菜には一つ一つくるっぱのシールが貼られていて、道端の看板にもくるっぱがひょいと顔を出す。くるっぱはゆるキャラらしくアンバランスな形をしていて、確かに不格好であり、それ故に愛らしい。久留米市で目にしたものは、知っていたくるっぱであり、知っていた久留米であった。

 

 友人の故郷を自らの故郷と成すことは、お前の物は俺の物というジャイアン的発想であり、狂気の沙汰とさえ思われるだろう。しかしそれは無害であり、楽しきことである! こうして「故郷」を増やしておけば、将来に出張をしたりするときも、旅を大いに楽しめるであろう!

九州旅行記 前編

 私は車が大嫌いである。駅まで車で乗せてもらうくらいならば、慣れた道であり車に乗る時間も短いのでまだ耐えられる。しかし、30分も1時間も車に乗るということになれば、ひどく緊張し、不安になる。自動車は飛行機や電車よりも圧倒的に危険な乗り物なのだから、合理的ではあるだろう。

 そんな有様だから、鹿児島から長崎の九十九島まで車で往復する旅行の提案を聞いたとき、私は猛反対した。絶対に同行したくないと。一緒に旅行したいという母の懇願により、私は仕方なく旅行についていくことに決めた。5か月前のことである。

 

 それから私は、不安感が続く状態に陥った。車での移動距離は1000kmを超える。生きて帰れるはずがない。そうして、終末の日までの日数が減っていくのを感じながら、日々を過ごすことになった。

 そして春休みになった。残された時間は少ない。そう思うと、行動に変化が現れた。本当に会いたい人に会いたいと言うことができるようになってきたのだ。

 

 私は昔から、「幸せそうで羨ましい!」とたびたび言われる。少なくとも大学に入学するまでは、いろんな人から言われてきた。そう言われるのが普通だと思っていた。大学に入ってからは羨ましがられることが少なくなった。何かがおかしい。その理由を私は、良質な人々との交際がないからと推測した。これはある意味では正しい、しかし当時の私がとらえた意味は、誤ったほうのものであった。

 そうして、人々が羨むような友を持つことを目指すようになった。肩書きを気にして、pathosが対立するような人と交際するようになった。それによるストレスで体調が悪化することも度々あった。それでも懲りずに、この2年間で3回ほど似たような間違いを繰り返していた。

 

 生きているということ、その非自明さを再確認したとき、考え直すことになった。これまでの人間関係は、本当に正しいのだろうか。誰かと仲良くしていたら、他の人からどう思われるか。それを気にしてつるむ人を決めるのは、本当に幸せにつながることなのだろうか。

 そうして私は変わった。大好きな人に大好きだと伝えること。会いたい人に会いたいと言うこと。何のひねりもないことだが、大切なことだ。

 

 幸い、1000kmを超える自動車の旅から生還し、今この文章を書くことができている。何とも幸運なことである。これからも、この旅を通して気づけたことを大切にしていきたい。

 

 ところで、sympathyというものを重視するようになったことには、"Jane Eyre" という作品を読んだことも大きいだろう。翻訳版だと文庫本2冊、計1000ページほどと長い物語ではあるが、春休みで暇を持て余している方にはおすすめしたい。