落単芸と、バカッターと、言葉遊びと

 笑いには2種類ある。外界に変化を与えることなく元に戻れるものと、戻れないものとである。

 

 近頃、バカッターというものが話題になっている。度の越えた悪ふざけをツイッターに投稿し、世間から非難を受ける人のことを言うそうだ。一度の失敗が世界中に知られ、痕跡が残り続ける。怖い世の中になったものだ。悪ふざけと言えば、渋谷のハロウィンでトラックを倒して大騒動になったことも記憶に新しい。

 悪ふざけは、笑いを容易に呼び起こす。本来守られるべき秩序が壊されることによる開放感、爽快感。ふざけた行動には眉をしかめる人も多いだろう。それは、悪ふざけによって、外界に損害を与えているからだ。店員が店を貶める、他者の所有物を破壊する、いずれも明らかな害である。

 

 外部に害を直接的に与えなければそれでよいのだろうか。

 落単芸人という人たちがいる。彼らは大学でいかに華麗に単位を落とし、多くの人から笑いを得られるかを競っている。彼らは、外部に害を与えない。それどころか、自らが悪い成績をとること、他の履修者に良い成績を取りやすくしている。それの何が問題なのだろうか。

 ここで、落単芸をする前後での、外界と自身について考察してみよう。前後において外界に影響を与えることはないとみなせる。しかし、単位がとれないことが周囲に伝わることで、自身は学習が苦手なのだと思われてしまう。元の状態に戻そうと思うと、落単という事実を、それを知った人たちの記憶から消さなければならない。そのためには、外界に影響を与える必要があり、以上から落単芸は不可逆のものであると結論できる。

 

 それではどうすればいいのだろうか。人を笑わせたいという精神は高尚であり、大いに称賛すべきものである。しかし、外界または自身をdegradeするのでは、その良き精神を悪い方向に向けてしまうようである。

 可逆であり、無害な笑いだって存在するのではないか。例えば、言葉遊びなんてものがある。古典から文章を適切に引用して面白おかしく会話をすることは、むしろ知的さを周囲に知らしめさえする。架空の言語体系を作り、空虚ではあるが愉快な言葉を話すことだってできよう。

 笑いを不可逆な変化から取り出すことだけを考えると、行き詰まることがある。そんなとき、可逆な変化もあったな、と思い出してみると、別の世界が広がってくるのではあるまいか。

折りたく林檎の記

 私は、人か理解されないことが多い。

 考えてみると当たり前のことかもしれない。中学でも高校でも大学でも、常に出身地域として少数派であった。地域によりその構成要員は幾分異なり、それにより慣習や制度に違いが生じ、終には各々の思想にも影響を及ぼす。このように人の属性から性格や思想等を推定するのは排他的思想にもつながり甚だ危険ではあるが、その地域の空気が、或る人の人生に影響を及ぼしうることは一般的認識として共感していただけよう。

 私の差異は地域差だけに還元するのは適切ではなかろう。私はそもそも人と違った行動をすることが多かった。私は20代の若者であるが、スマホタブレット端末を所持したことが一度もない。何故かと問われれば、必要性を感じないし、その機種・利用料金でお寿司でも食べたほうが幸福感を得られる、と答えることにしている。流行から敢えてはずそうともがいているわけでなく、効用の高まる行動をとっているだけであり、至極合理的行動だと思っている。他にも例を挙げることができるが、立ち入った話になってしまう恐れがあるのでここらにとどめておこう。

 

 斯くして私は持論を語らなくなった。語ったところで理解される見込みは少ないのである。持論と言うように、頭の中では考えていたのである。労働問題、貧困問題、格差から広く社会問題に興味はあり、心を痛め、何とかできないものかと頻りに空想していた。議論をする相手を欲していた。

 自らの意見を主張すること、特に政治的な意見を主張することは、日本においては昔からタブー視されがちである。喫茶店に入るや否や先客から「君はliberalかね?conservativeかね?」だなんて聞かれれば、直ちに店から飛び出し、恐ろしい時代が到来したと、わなわなと震えるだろう。

 興味のある議論ができないのであれば、会話が不自由になってしまう。私は、意味を成さない言葉「くるっぱ、くるくる!」といったものをいくつか持っていて、それを友人にひたすら話すようになった。当然、語彙を持たない薄っぺらい人間だと思われ、私の元を離れていく人もいた。話したいことが話せない、ということに因ってか、満たされないという感じもあった。

 

 そこで当ブログを立ち上げ、思うことを発表していくことにした。そう決めると何を書こうかと想像が止まらなくなり、一晩寝付けなかった。余程、自らの意見を伝えたいと思っていたのであろう。

 飽きっぽい私のことであるから、2、3の記事を書いて、もうやめにしてしまうかもしれない。そのときは、人間だから仕方ない、と笑い飛ばしていただきたい。