田舎という絶望

 長期休暇になると、帰省することを期待される。それは地方の学生にとって当たり前かもしれないが、私の家では長期休暇まるまる帰省するのを当然のように要求されるので、とても困ってしまう。

 なぜ困るのか。もちろん、誰かと遊びに行ったり、ゼミに参加したり、そんな夏休みの特権が実家では使えなくなる、それは重大な機会の損失である。しかし、それ以上の困難もある。ド田舎に暮らす者にしか分からない、さらに深刻な問題を紹介しよう。

 

 通常、実家では家事も全てやってもらい、自由な時間も多くなるため、精神的な余裕が生じることが期待される。私も、帰省して5日ほどはその通りに、都会の喧騒を離れて別荘でゆっくり過ごしているかのように、何もしないことの幸せをかみしめる。1週間が過ぎ、2週間が過ぎると、だんだん、「何か」をしようとする。それは何でも構わない。どこかに遊びに行ったり、誰かお友達に会ったり。そこで田舎の問題が姿を現す。

 実家というのは、小中学校や高校の同級生の実家でもあるから、みんなが帰省する休暇はちょっとした同窓会を開いたりするのにぴったりである。いついつにどこどこで集まろうと思うんだけど、そんなお誘いをもらうこともある。実家に籠っていてもおもしろくないから、もちろん参加したいのだ。

 東京にいれば、何かを「したい」というのと、何かを「する」というのは、だいたい同じ意味である。誰も妨げる人はいないし、せいぜい時間やら予算やらの束縛条件を受ける程度で、その条件のランクは望む行動の自由度に対して小さいことが多く、うまく調節すればなんでも実現できると思って良い。

 実家では束縛条件が変わってくる。「親」の存在だ。休暇とはいえ遊びに行ってばかりではいけない、という条件もある。ただ、最もやっかいなのは、独力で街に出ることができないことである。街に出るためには車で駅まで送迎してもらわなくてはいけない。駅まで歩いては、大きな街に出るまで片道2時間かかってしまう。それは、大したことのないように見えて、大きな問題である。

 どこかに思いつきで出かけることは当然できない。誰かと遊ぶ約束をするにも、親の都合が関わってくる。親に仕事が入ったり、他の用事で車を使うと主張されれば、即アウトだ。その結果、実家ではひたすらに家に引きこもることになる。東京にさえいればどこにでも出かけられ、何でも好きなことができると分かっていて、実家では何もすることなく引きこもるのだ。それは絶望である。

 

 「格差」はなぜ問題なのか。それは絶望を引き起こすからである。格差というのは束縛条件の多さであり、何かするときの足かせである。ド田舎に住むこと、貧困、教育、現代にはたくさんの格差があるが、本質は同じだろう。その問題は、自身の不自由な境遇に慣れてしまい、実際に束縛条件が少なくなったとしても希望を持つことができなくなってしまうことである。

 大学無償化が大きな論争となっている。修学の環境を整えることは大事であろう。ただ、本当の貧困に陥っている子どもに対して、絶望した子どもに対して、それは本当に有効なのだろうか。幼少期から寄り添い、心のケアをしてあげることで、絶望から救い出す、そんな支援こそ、本気で格差を縮めたいのならば、必要なのではないだろうか。