新緑の季節

 4月下旬から5月上旬にかけての連休を、世間ではゴールデンウィークらしい。今日は、実家ではお茶刈りをしているらしい。夏も近づく八十八夜である。

 思えば、GWにどこかに遊びに行ったという記憶はない。記憶はいつもお茶畑である。けたたましい音をたてて動くお茶刈り機、お茶の葉を取り込んでふくらむ大きな袋、ふわふわしていていいにおいのその袋は、1年で1回だけの、世界一贅沢なおふとんだ!

 

 そうやって、小さい頃から、農業というものが身近にあった。果樹園、田んぼ、お茶畑、普通の畑、そういったものを所有しているのは、普通のことだと思っていたけれど、どうやら珍しくて、すごいことらしい。

 でも、その土地に戻ってくることはないだろう。もうちょっと都会で就職するだろうし、故郷は人が減り続けるばかりだ。あと何十年かしたら、もう人がいなくなるかもしれない。

 

 農業、それは、本当に豊かな営みだ。個人で所有するようなちょっとした畑、そのちょっとした一画に植えられた苗から、数十 kg もの野菜が収穫できたり。一区画のちょっとした田んぼから、14人が1年間食べてやっと消費できるくらいのお米がとれたり。スーパーで売られている野菜などに慣れると、農業というものの規模の大きさに仰天するだろう。

 毎年、5月にお茶を刈ると、お茶を加工する組合に持って行って、加工してもらう。そのときに、手数料的な感じでかなりたくさんのお茶を組合に譲ることになる。なんだか、年貢みたいだ。そうして、譲ったお茶は、商品化されてどこかで売られて、誰か知らない人が飲むことになる。それで、余ったお茶は家族で飲むことになるのだが、毎日たくさんのお茶っ葉を使ってお茶を沸かしても、使い切れないくらい、ほんとに、ほんとにたくさんあるのだ。

 

 もし、田舎でも暮らせるほど体力があって、車の運転をするだけの勇気があって、虫が嫌いではなくて、すぐに手荒れを起こしたりしなかったら、私は農家になりたかった。農業も最近はだいぶ変わってきてるみたいだから、今の私にももしかしたらなれるかもしれないけれど、それでも、もっと私に合った職業があるんだろうな。

 それでも、私は、農業というものを本気で応援したい。良い農作物を買うこと。たくさんの野菜を食べること。農業の良さを語ること。直接的に農業を推進することはできなくても、私にできることはたくさんある。

 

 最後に、もし、みんなが何十年か後に、仕事がなくなったり、どうしても仕事がつらくなったり、絶望して、どうしようもなくなったとき、農業という選択肢があることを忘れないでほしい。それは、世間からのイメージはともかく、生きる道として、そんなに悪い選択肢だとは私は思わない。