折りたく林檎の記

 私は、人か理解されないことが多い。

 考えてみると当たり前のことかもしれない。中学でも高校でも大学でも、常に出身地域として少数派であった。地域によりその構成要員は幾分異なり、それにより慣習や制度に違いが生じ、終には各々の思想にも影響を及ぼす。このように人の属性から性格や思想等を推定するのは排他的思想にもつながり甚だ危険ではあるが、その地域の空気が、或る人の人生に影響を及ぼしうることは一般的認識として共感していただけよう。

 私の差異は地域差だけに還元するのは適切ではなかろう。私はそもそも人と違った行動をすることが多かった。私は20代の若者であるが、スマホタブレット端末を所持したことが一度もない。何故かと問われれば、必要性を感じないし、その機種・利用料金でお寿司でも食べたほうが幸福感を得られる、と答えることにしている。流行から敢えてはずそうともがいているわけでなく、効用の高まる行動をとっているだけであり、至極合理的行動だと思っている。他にも例を挙げることができるが、立ち入った話になってしまう恐れがあるのでここらにとどめておこう。

 

 斯くして私は持論を語らなくなった。語ったところで理解される見込みは少ないのである。持論と言うように、頭の中では考えていたのである。労働問題、貧困問題、格差から広く社会問題に興味はあり、心を痛め、何とかできないものかと頻りに空想していた。議論をする相手を欲していた。

 自らの意見を主張すること、特に政治的な意見を主張することは、日本においては昔からタブー視されがちである。喫茶店に入るや否や先客から「君はliberalかね?conservativeかね?」だなんて聞かれれば、直ちに店から飛び出し、恐ろしい時代が到来したと、わなわなと震えるだろう。

 興味のある議論ができないのであれば、会話が不自由になってしまう。私は、意味を成さない言葉「くるっぱ、くるくる!」といったものをいくつか持っていて、それを友人にひたすら話すようになった。当然、語彙を持たない薄っぺらい人間だと思われ、私の元を離れていく人もいた。話したいことが話せない、ということに因ってか、満たされないという感じもあった。

 

 そこで当ブログを立ち上げ、思うことを発表していくことにした。そう決めると何を書こうかと想像が止まらなくなり、一晩寝付けなかった。余程、自らの意見を伝えたいと思っていたのであろう。

 飽きっぽい私のことであるから、2、3の記事を書いて、もうやめにしてしまうかもしれない。そのときは、人間だから仕方ない、と笑い飛ばしていただきたい。